2012年6月29日金曜日

2nd Half of Short and Sweet Summer Break Day 22 - 思い出の1976

こんばんワニ。




アメリカのヘルスケアが変わる!という大変なニュースをFacebookで知った。


アメリカの医療の仕組みを身を持って経験した自分にとって(はぁ?救急車10万円?)(視力検査ってタダじゃないの?)こうした動きがあるのはとてもうれしいことです。大統領、おめでとう<3




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さて。今日は1976年の話です。


私、まだ産まれてませんよちなみに。


友人の思い出話なのです。




先週1週間NilakottaiVeelinayakenpattiに逃亡していた私。


ある夜、20時から21時まで停電がありました。充電式ライトをつけて、ご飯をいただく。




そういえば、これも書こうと思っていたことなのだけど。


以前から私は「Veelinayakenpattiでは皆さんに家族のようによくしてもらって…」とウザく書いていますが、「家族にはやっぱりなれない」と思うのが、この食事の時間なのです。


通常農村部の家族の食卓では、まずお父さんが食べる→息子が食べる→(おじいちゃんおばあちゃんはこのへんのどこかに入る)→娘が食べる→お母さんは最後に食べる、という順番があるようです。というのも、ご飯は基本作りたてをちょっと(というわけでもないんだけど)盛っておかわり。例えばDosaiなら焼きたてを食べる。右手はスプーンフォークナイフお箸になるため、カレーまみれ(言葉が悪くてすんません)。ってことで誰かがよそってあげなくちゃいけない。この順番は家長から、男性から、というインドの力関係の表れなんでしょうね。。。


んで、もちろんお客さんは上位に入る。お父さんと一緒に食べる地位が与えられる笑。


私はいつ食べているかというと、そう。。。お父さんと一緒なんですね。


いつも「お腹すいたー」と言いつつご飯を作ってる娘Sより先に食べるのがとても申し訳ないのだけどSは「私はあとで」と言い張る。お父さんと一緒に食べるなんて、考えられないんだろうね。


一緒に床でごろごろ寝ても、親戚のうちに遊びに行っても、「Veelinayakenpattiを住所にしていいよ」と言われても、水くみ手伝っても、やっぱりホントの家族にはなれないなぁと、ご飯を食べながらちょっとさみしく思うのです。


日本の実家では、家族全員で夕食が基本でした。父は晩酌しててちと時間がズレてたけど。父の帰りが遅くなると先に食べちゃうこともあったかな。昔は携帯電話なんかなかったからね。テレビ観ながらあーでもないこーでもないとか言いながら食事してたんだろう。私が東京に勤めるようになって父と終電で帰るようになっても、母と妹は待っててくれることが多かった。だから私は家族全員で食事をしたいと思う人間なんですよね


でもこの間Chennaiに行って気がついたのは、都市部ではこの順番があいまいになっているんじゃないかなということ。M子さんのおうちでは、オーナーもお手伝いさんも一緒に住んでる生徒さんもみんな食卓を囲んで(食卓ですよ!床じゃないですよ!笑)みんな食べてたなぁ。


男性がいなかったからそういう場合はやっぱり順番ができちゃうんだろうけど(映画とかではやっぱりお父さんと年長者が先に食べてる)。




脱線したけど。


その日もお父さんと先にご飯を食べさせてもらって、充電ライトのもとで停電時間終了を待ってました。娘たちはお隣のおうちでおしゃべりをしているので、お母さんMとお世話になってるNGOのCと私もおしゃべりをして待つことに。お父さんはベッドに横になってちょい寝中。


そこでお母さんMがボソっと一言。


1976年のVeelinayakenpattiは最高だったのよ


1976年、お母さんMは学校の先生としてこの村にやってきたんだそう。


以前にMaduraiにバスで行く途中に通った場所で「ここが私の産まれた村なのよ」とMは言っていて、どうやってこの村出身のお父さんと出会ったんだろうと思っていたので(二人は異カースト間の恋愛結婚)、それでナゾが解けた。なるほどー。


今は細くてちっちゃいMだけど、その当時はぷっくりと太っていて、Cいわく、お父さんは彼女のそこにホレたとのこと。は?


と思ったら、お父さんも昔は太ってたんだってー。壁にかけてある90年代の写真はちょっと今よりぷっくりしているけど。そうだったんだ。ぽっちゃりカップルだったんだね。


この村で産まれたCはそのころ大学生で、Mと友人になる。同じ村出身でその後CとNGOを立ち上げることになるMoはお父さんの親戚なので、そんなつながりから二人の間に恋が芽生えちゃったんでしょうか。


「1976年、1977年は最高だった。1978年からはサイアク。」


な、なんでよ!


1978年はMがお父さんと結婚した年だそうです苦笑


現在は別々の通りに住んでいますが、その当時お父さんとMはCの近所に住んでいて、二人がケンカするのが聞こえたそうです。


(寝ているお父さんをチラっと見て)


よくぶたれたわよ


なんですと!!!!!!!!!!!!!!!


お父さんのこともMのこともかわいがっていたCのお母さんも、そんなときは激怒してお父さんをよく叱っていたんだとか。


今もたまにお父さんの独裁者ぶりが私にもあきれちゃうと思われることが多くありますが、昔はそれがヒドかったそう。3人目の子どもが産まれてやっと、まるくなったんだってさ。





「仕事で毎日Nilakottaiまで行ってたわよ。あのころはAutoもバイクもなかったから歩くしかなかったのよ」


す、すごい。。。片道1時間くらいかかるんじゃないの?だから細くなっちゃったんだろうか。



「1976年は楽しかったわよー。うちの母はNilakottaiまで毎日映画観に行ってたわね」


そして話題は「お母さん」に。


「うちの母はとっても陽気な人でね」
「Cの母にはよくかわいがってもらって」
「Cの母が亡くなったときはMの娘が泣きながら学校から帰ってきて」





そして二人とも涙ぐんでしまうのでした。


「この村は1990年代まではとてもいいところだったの。でもそれ以降はみんなお酒を飲むようになってね…昔はドアを開けっ放しでも何にも心配いらなかったのに」


大変残念なことだと思う。個人的には週末に酔っ払って路上で人目もかまわずケンカしているお向かいさんはかなりのエンターテイナーだと思っていたけど苦笑。


まぁこんな場で「日本では飲酒してます!」とか宣言できないけど、飲みすぎはよろしくないですよね。こっちの人って「たしなむ程度です」というレベルがないから。飲まないか飲みすぎ、みたいな。飲むこと自体まだ社会的によろしくないとされているし。




ということで、毎回行ったら「いい家族だな」と思うMのおうちだけど、いろいろ歴史があるのね、としんみりしてしまいました。


21時、電気が回復。お隣から娘二人が帰ってくる。3女Sに


「今二人に1976年の話を聞いてたんだよ」


と言うと、何かを察したように


またぁ!過去のことよ!


とニヤリ。


娘がこれだから、この家族もうまく回ってるのかもしれない。



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また今日も一本映画を観ました。


字幕つきって聞いてもらったタミル映画なんだけど、字幕なし。シンプルなストーリーであることを願い、そのまま観る。


Kadhalil Sodhappuvadhu Yeppadiという映画。監督Balaji Mohanのデヴュー作だとか。


恋愛をメチャクチャにする方法、みたいな意味のこのタイトル。大学生の2人が出会って、仲良くなって、でもすれ違って、ケンカ別れ。でも最後には…というシンプルな恋愛もの。


なんかこの手の「オトコノコがオンナノコの尻にしかれて」という図式もタミル映画であきあきするほど観てるんだよね。いっつもオンナノコがハチャメチャな場合が多い。タミルガールズ、おそりしや。というか、タミルメンズがナイーブな場合が多くて、それも心配になる。(そのくせケンカシーンばかりある←その時は強い。)


(そういえば、韓国ドラマや映画では「イケメンとドジなオンナノコ」図式が多いのは何でなんですか?韓流ファンの人、教えてください)


ということで、ストーリーは典型的。ジョークも各所にあり、まぁまぁ。


でも最後まで観たのはMynaaに出ていたAmala Paulがヒロインだったから。Mynaaのトレイラーを最初に観たとき、他の女優さんに比べて肌もそんなに白くないし(たいていの女優さんはタミル人じゃねぇだろってくらい色白)、肌荒れしてるし、そんなにキレイでもないし…と思ったのだけど、Mynaaを観て彼女の目にかなり惹かれました。目力が強いんですよ。


なぜかこの映画では90年代の日本人女性のような前髪になっていて歯がゆいですが、Mynaaと違ってフツーな大学生演じてるのがとてもカワイイです。








大学生の恋愛で、こういうところがこじれるってのもなんかわかる。これは万国共通なのかな。





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